catch and release _ my upload event.
豊嶋康子(コンセプチュアル・アーティスト)

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catch and release _ my upload event.
豊嶋康子(コンセプチュアル・アーティスト)

癖のように動画をアップロードをし続けていた時期がある。公開設定だった。
2007年から2008年のほんの一時期だ。のちにそれらはすべて自ら削除した。

すべて相撲の映像だった。午後1時から6時までのNHK-BS2で放送される大相撲中継の三段目上位から結びまでの映像や、生観戦に行った際に自分で撮影した動画や静止画像をスライドショーにしたデータが素材だった。NHKのアナウンサーによる相撲の実況、そして親方の解説も味のある要素として取り込んでいた。そのデータにiTunesのライブラリに入っている曲をこれでもかこれでもかと合わせ続けていた。

その間、こんなことがあった。
動画サイトのメイン画面脇には「関連動画」が出て来るしくみになっている。タイトルやタグで関連づけられた動画が随時参照されるのだがある日自分がアップした動画をうっとりと堪能中に、その脇になんと私の編集した動画と同じタイトルのものを見つけた。確認したら私が「つくった」ものだった。だれかが私の動画を無断でダウンロードして、アップロードしたのだ。「安馬・朝青龍」戦で椎名林檎の楽曲「警告」と合わせていた。私はそのチャンネルのユーザーのアクセスを禁止した。「盗まれた!」そう思った。もちろん私は私が大きな矛盾を抱え込んでいることは自覚していた。所有の理屈と実感が噛み合なくなっていた。

2008年の夏場所。そのころは沢山のメッセージを受け取っていた。モンゴル、アメリカ、ギリシャ、チェコ、ブラジル、ドイツ、チリ、アルゼンチン、イギリスの相撲ファンからだった。「最新の相撲をみせてくれてありがとう」というものだった。受け取るメッセージがさらに増え、チャンネル登録者も増えていた。皆、私がリアルタイムでアップロードする相撲に期待していた(という強迫観念を私は抱き始めた)。私はそんな皆のために気を張り、三段目上位から幕下、十両、幕内の全取組をアップした。おまけに格段優勝インタビューも加えた。私は私の好きな曲を相撲の取組と同期して編集するのはチャンネル登録者に悪いなと感じはじめた。そんな加工は相撲観戦としては野暮であり、相撲や楽曲をそれぞれを汚すことになるかもしれないと怯えはじめた。また数年後に自分自身で自分の感覚を羞じるのではないかと思った。「しばらく寝かせておこう」そう決めた。にも関わらず、止められなかった。ときおり気に入った力士の興味深い取組には相変わらず速度を変換したり、気に入った曲をつけて見入ってしまうのだった。病み付きになっていた。それらの動画を再びアップロードし、日によって公開したり非公開にしたりしていた。私の不安定な気持ちを反映して公開か非公開かの設定が頻繁に変更された。

2008年の夏場所終了後、すべての動画をアップロードし終えたあと、「こんなことを続けてたら気がおかしくなりそうだ」と夜中に思い詰めて寝付きが悪くなっていた。既に1300個以上の動画をアップロードしていた。

結局その後、思い切ってすべての動画をひとつひとつ削除していった。削除ボタンをクリックするたびに身体の皮が削がされるような痛みを覚えた。真夜中にためらいながら行ったので、すべてを削除し終えたときは既に夜が明けていた。最後に私は私のチャンネル自体を削除した。公開してはいけなかったのだ。ひとりで楽しまなければ私は苦しくなるのだ。

憑き物を自力で剥がす思いがあった。しかし結果としてそれは浅はかな自己否定のような、自分に対しての裏切りを感じた。「そもそもこのアップロードは「違法」だが、この削除はもっと自分を見失うことになるのではないか?」と自問した。

そのあとの私は別の動画サイトに非公開の設定で自作の相撲動画をアップロードして観耽ている。DVDに焼いてあるし外付けHDDにも入れてあるのだが、クリックしたらすぐに公開できるきわどさに置きたい。そこが私の土俵際なのだ。こんなに執着したデータが「作品」としてリリースされる可能性は今後もないだろう。そもそもなぜ私は当初に公開設定をし、不特定多数の他者に自分の行為の結果をリリースしたくなったのだろう。そしてそのあとはそのあとで、その他者がいない設定になっても、ひとりで観ていて充分に堪能に浸ってるのはどういうことなのだろう。

それまでは制作していて、それを観てもらいたい「他者」がどこかにいるとイメージできていたような気がする。しかしアップロードというデータの置き場に手が届くようになったここ数年、「他者」に対して「公開/非公開」の設定という介入ができるようになった。「他者」をカスタマイズできるようになった。気に入らない不都合な他者は除けるようになった。しかし逆説的に、これによって、それまでは意識しづらかったもっと遠くの「他者」が顕われてきた。その「他者」に対してはなにも隠せない気がする。つまり「非公開」にして「他者」との接点を断つことができても、「公開する?非公開にする?どっちがいい?」と選択肢を提供してくるさらに上層のメタな「他者」が身近に顕われてきたのだ。その「他者」は私が他人に対して見える部分や見えない部分を操作していること自体をみて嗤っている。私は負けず嫌いなので嗤われるのが嫌だ。そこから逃れたい。逃れたい故に、逃れないでそこと闘いたいのだ。

ある日こんなことがあった。あの安馬vs朝青龍を椎名林檎の「警告」で同期した動画データがどこにも見当たらないのだ。当時アップロードした直後、元のデータ自体を誤って削除してしまったらしい。呆然とした。アップロードしたものはすべて削除されていた。取り返しができない悔しさで息苦しくなった。
そこでふと思い出した。あの誰かが無断で私のチャンルからダウンロードして、さらにアップロードしていた件だ。私は検索してその動画がまだその人のチャンネルに残っていることを知った。

今度は私がその人のチャンネルに行き、その動画をダウンロードするはめにになった。
礼をいいたいような気持ちでいながら、しかし私はまだその人を恨んでいた。でもその動画がそこに保存されていることが実に嬉しかった。だからなんだか自分が情けなかった。この時の気持ちはまだうまく表現できないでいる。

無事、無断でダウンロードして取り戻した。
その動画を今、非公開設定でアップロードしひとりで観つづけている。

機関誌「新・方法」第13号掲載